ようこそ!カフェバー
「AROMA OF THE LIFE」
    アロマオブザライフ
ご来店ありがとうございます。
マスターの「だてひろし」です。

姓名    伊達 浩(ダテ ヒロシ)
生年月日 昭和32年10月15日
干支      酉
血液型     B型+
身長     166cm
体重      51kg
性別      男


近況経歴

17年間勤めた
UGグローイングアップ
旧宇都宮グループ/
主に従業員教育を担当)を退職し
2002年4月26日にこの
「aroma of the life」
をオープン!

UGグローイングアップ在籍中
立ち上げ、OPEN等で携わったお店

うつのみや田舎店
くいものや うつのみや本家
くいもんや 12,6    
レストラン ボビーズクラブ      
レストラン ボビーズカフェ
レストラン ZEROYA
レストラン エレファントカフェ
レストラン キリストンカフェ
レストラン ル・アラダン
イタリアンレストラン ジリジリ
カレーレストラン ブルーノ
ボンボンカフェ
大阪北・大阪南・松原市・箕面市
神戸三宮・名古屋栄、駅前
渋谷・原宿・新宿・福岡市

大阪北
クラブ セントラルパーク
クラブ アルカポネ
クラブ ル・キャステル
クラブ サンバクラブ
クラブ キーウエストクラブ
クラブ ビニィ
クラブ スポーツマンクラブ
マージャンサロン「ロクバン」
マージャンサロン「サンバン」
北新地
カラオケスタジオ「ボイス」
クラブ チャールストンクラブ
クラブ BEE


 占い

   星座        天秤座
   九星術 気学 七赤金星
   四柱推命学
   
算命学  年柱   丁酉
         月柱   庚戌
         日柱   庚申
         時柱   不明
         納音  山下火
         空亡   子丑
   六星占術   水星人−
   宿曜経占星術    鬼宿
   動物占い     ライオン


tdyく

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マスター日記からどうぞ


昭和32年 1957
 10月15日大阪府高槻市の大阪医大にて長男として生を授かる。おじいちゃんは東京大学卒の秀才。
親父も国立大でまぁそこそこの血筋(笑)ルーツは伊達政宗らしいとおじいちゃんはゆうとった(笑)
親戚のいとこにそれをキャッチフレーズにするのがおる。
(ついでにテニスの伊達公子も親戚にしてしまいよるんです)

昭和33年 1958 幼児期0〜6歳
 44歳ともなるとこの時期の記憶をたどるのもかなり困難です、昔の写真をみると何回か幼稚園をかわってるのがわかり「そうなんや」とミョウに感心!

昭和34年 1959 幼少期の記憶
 3〜5歳当時大阪の西淀川区佃6丁目におじいちゃんが経営していた日立造船の下請けの会社(船の煙突とかスクリューなんかをつくとった)がありそこに住んどった。
神崎川と左門殿川の合流地点の近くでよく洪水にみまわれて床上浸水してた、何回か避難したような記憶もある。

昭和35年 1960

 親とデモ行進をしてたのをおぼえています。
なんのデモかって?
昭和35年当時3歳にも満たない自分がおぼえてるんやからそら大事件ですわ!
この時期のデモ行進ゆうたらこれしかおまへん!
「あんぽはんたい」
そう日米安全保障条約締結です!
(えらそうにいうてるけどこの年になっても中身はじぇん々知りません、あしからず)


昭和36年 1961

 幼稚園の倉庫で男の子と3輪車を奪いあい戸を閉められ真っ暗な倉庫に閉じ込められ号泣、すぐ泣く子やった。
このことはトラウマになったのかは現在においても夢に登場する。
残念やけどニックキ同級生の男の子の顔は不鮮明になっています。
(5〜6年前までちゃんと覚えとったのに!)


昭和38年 1963 低学年期 小1

 高槻市立如是小学校入学                      
ご多分にもれず「落ち着きがない」「調子のり」の子やった。

「もう時効やろ!話」Vo.1

 友達が5円玉をだし「これみてみい」っと得意満面!
見たらなんかビヨ〜ンと伸びてて大っきいんですわ!
聞くと線路の上に5円玉をおいて貨物列車に踏ましたといいよる、よう真似せんやろというので、思わず「カンチンやんけ」(カンチンは簡単の意)とゆうたオレ。
ある日踏み切りを渡ってると信号が鳴り見ると貨物列車がやってくるではありませんか、先日の話が脳裏をよぎり思わずポケットの中の10円を線路の上にぃ置いた! 
警笛警笛警笛!
急ブレーキの音音音!
「えらいことしてもーた」
と思うて足をガクガクさせながら逃げ帰ったなぁ・・・
もちろん踏ました10円は回収できず・・・・
次の日例の友達にこの話をして
「おまえがやった時電車とまらんかったんか?」
って聞いたら青い顔して
「貨物列車に踏ましたゆうたん嘘やってん」と抜かしよる
思わずそいつの首をしめたおしたが、悪いのはすべて「調子のり」の自分


昭和41年 1966 小4
 妹誕生!本気で弟がほしかった自分はくやし泣き家族は大喜び

昭和42年 1967 高学年期 小5
 クラスの男どもでプロレス同好会を設立土曜日になると自主的に練習してた、腕立て腹筋とかを。
私の役どころは「大木金太郎」得意技は「オッチョッチョッチョホイ」と気合を入れながら繰り出す「一本足原爆頭突き」!
ボボブラジル役のやつもおった
みんなに持ち上げられて真剣に「ココバット」Vs「一本足原爆頭突き」合戦をやった!
帰りしなには頭がほんまにデコボコでフラフラやった(爆笑)
プロレスは王道の馬場派です(今はどうゆたらええんやろ)

昭和44年 1969 中1
 高槻市立第三中学校入学                       

 「野趣」が家風ともいえる我がファミリーの年中採取行事は「ふきのとう」に始まり「芹(せり)」「土筆(つくし)」「嫁菜(よめな)」「蕨(わらび)」「たらの芽」夏は「さざえ」「とこぶし」「がんがら」秋は「茸狩り」「栗拾い」等をかかさずやってました。
庭には「ゆすら梅」「ぐみ」「杏(あんず)」 「桃」 「イチジク」「柿」「山芋」がありそれを取って食べることを楽しみに四季をすごす。

この時期から自分は自然回帰願望があるというか今でいう「森林浴」をしなければならないタイプの人間であることを感じる。
その影響かワンダーフォーゲル部に所属
通称「ワンゲル」→広辞苑によると 『「青年、学生のグループによる山野徒歩旅行の運動、20世紀初頭、ドイツに始まる』とあります、簡単にいうとハイキング部です。
練習内容は明けても暮れても、基礎体力を養成するための「ランニング」「ダッシュ」「腕立て」「腹筋」でした。
初めての「ポンポン山」のハイキングコースはいまでもあるいている。
(ポンポン山はちゃんと地図にものってる高槻と京都の境にある山です)
昭和45年 1970 中2

EXSPO70「人類の進歩と調和」
 そう万国博覧会開催!このときの思い出
各パビリオンのスタンプ集めがはやってた
多分アフリカの国やったと思うけど小さい建物の集合で10カ国くらいあった
「一気にスタンプ10個ゲットできる」思て勢い込んで入った!
すると黒人のお兄ちゃんがスタンプもってカウンターに座っとった私はスタンプ帳を出して彼の前にひろげた
彼は首を横に振って押してくれん
「なんでぇな」っていうと彼はおもむろに卓上の注意書きを指差した
「館内をご覧になってください」と書いてある
「そらそうやんぁスタンプだけおしてなぁんにもみぃひんかったら意味ないはなぁ」友達とそんなことをいいながらその国(忘れた)の産業や観光名所などのパネルなどを見てるふりをしてスタンプを押してもらった
「スタンプ集めも楽ちゃうわ」とかいいながら次のパビリオンに入ろうとしたけどまら黒人のお兄ちゃんがおったんで友達に「やめとこか」ゆうて退散した。
つまり中学2年生では「人類の進歩と調和」というテーマの理解は不可能やった、が自動車工業館の大スクリーンの映画にでてくる外人のねぇチャンがヌードで踊る(ほんの一瞬)シーンは今でも覚えてる!
(万博は10回ほど行ったが必ずこれは見てた)

 おじいちゃんとおばあちゃんがクリスチャン(プロテスタント・新教)やったんで教会の手伝いをやってた。
新任の牧師先生は柔道3段の猛者(もさ)やった、礼拝堂にタタミ引いて柔道教室やってて私もならってた。
餅つき(私の特技)やキャンプ、伝道集会のポスター張りなんかを一生懸命やった。
先生個人の生活や牧師しての仕事を身近で見てたけど、ほんまにすばらしい人やなと思った。
中学2年といえどもいろんなことがわかりかけてきていた、例えば先生の給料(牧師給という)は信者の献金から支払われる、それは会計報告の中で公表されるから知らない人はいない、とにかくお金のことは超クリーンやった。
 
現在私は信仰をもってないが帰依させていただけるならやはりプロテスタントかなと思う。
イエス様が私の心の扉を叩いてくれているのは感じるし、何年も教会にいってない私のことを祈ってくれている人(前述の先生など)がいることも感じます。


昭和46年 1971 中3
マジックにはまる!
 阪神百貨店の手品コーナーで「ワンダーコイン」(今でもある誰もができるコインマジックの最高峰)を見てその店に通う。
その手品師は現在吉本興業所属のジョニー広瀬氏!
彼には食事をおごってもらったこともあった、私のことを覚えてるやろか?

 試験勉強しなあかんのがほんましんどかった、今さらながらに自分の勉強嫌いを認識する。
10月頃学校終わったら神社の裏の草むらに転がって空を眺めてラジオ聞いとった、南沙織の哀愁のページよかったなぁ。
カーペンターズの絶頂期でもあった。

昭和47年 1972 高1
私立北陽高校入学
 公立は絶対無理!
と太鼓判を押された私は北陽高校を専願で受験し合格する。
当時、野球、サッカー共に強くそういう意味では有名校やった。
阪神タイガースの岡田とは同学年、遊びでソフトボールをやっているとき ランニングしてた彼によくボールをぶつけてた、野球部サッカー部の連中けっこうこわもてが多かったが彼は非常におおらかやった「こわぁ〜たのむでぇ」っていうてたなぁ。

円形校舎があり教室は扇形やった。
けっこうヤンチャなやつが多かったので気の弱い私はずいぶんいじめられた。 コショウを山ほどかけて食う学食の45円の中華ソバがなつかしい。

やはりどっかで目立ちたいという願望があったのかサークルは演劇部に所属男子校の色気のないクラブである、練習内容は明けても暮れても、基礎体力を養成するための「ランニング」「ダッシュ」「腕立て」「腹筋」でした。
まるで中学のときと同じや、なんでこんな練習?と思うでしょう?
芝居は役者も裏方すごいハードな仕事でメッチャ体力を必要とするのです
もちろん腹式呼吸による発声練習も毎日「あえいうえおあお」とか「アメンボ赤いなあいうえお」とかやってた。
当時私が考案した早口言葉「右目右耳右耳右目」
進化型は「三右目三右耳三右耳三右目」
どうですぅいえますか?(笑)
公演前のなると終電で帰る毎日やった、それくらい没頭していた。

昭和48年 1973 高2
 たくさん芝居を見たけど3つ印象深いものがある 。

近大演劇部覇王樹(サボテン)座「僕らが非情の大河を渡るとき」

 高校のOBがいるので観にいった(のちここに所属することになる)当時の演劇界の人気作家「清水邦夫」(別役実なんかもいた)の作品で「体制」に対しての左傾向の芝居やった、なんでか終わった後になかなか立たれへんかった。

劇団四季「エクウス」
 市村正親主演で精神病理から人の深層心理を探求していくテーマ。
とにかくラスト近くの市村が全裸でアイスピックでもって馬たちの目をつく舞踏的なシーンは圧巻やった、一生忘れんやろ。

関西芸術座プロデュース 「星のためいき」

 現在も活躍中の秋野暢子主演、当時高校2年やったけど“天才”やったんかな「う〜ん」っちゅうた、その頃からスターのレールは引かれたんやなと今さらながらに思う。
彼女とは大阪府の高校演劇の組織の関係で毎日放送の「現代を生きる」という番組にいっしょに出演したことがある、たしか「高校生と自然」というタイトルやったと思う。
彼女には「霊」が見えるという異能力があった・・
テレビで彼女を見たらそのことを思い出しおもわず「今でも見えるんかな」と考えている自分がいるのがおかしい(笑)

昭和49年 1974 高3

3年生のときのコンクール
 意見の対立で後輩が全員退部してしまい3年生3人だけになった。
大学受験を控えていたのに11月のコンクール出場のため創作劇「空白の海」を立ちあげた。
舞台は根室の海上保安部の通信室、そうつまり「北方領土返還」がテーマの芝居やった。
場所の設定が
通信室なのでを見せてもらいに淡路島の海上保安庁まで行った。
結果は優秀賞まぁ2位ということ、私は新任の若い通信士という役で「演技賞」をもらった、これは地区大会やったけど“勝って”大阪府の本選に行くつもりやった(大学受験をけっても)
終わって仲間と帰り道のトラックの荷台で中村まさとしの「なにーげない毎日が〜」っちゅう歌を泣きながら歌った

大学受験
 当時の北陽高校では近大に合格するのは学年で20位以内でないと無理やった。
クラスで30何番の私は受験することさえダメといわれた、がオヤジが学校と直談判、結局受験できた、そして偶然合格する。
口の悪い英語の先生に「オマエが合格するとはなぁ」となんか悪いことをしたかのようにいわれた、それほど意予想外なできごとやった。
(その先生は数年後、野球賭博で逮捕されたと風のうわさで聞いた)


初めてのアルバイト
高校を卒業して初めてアルバイトをした。
京都六角西洞院東入にあった団体旅行専門のホテルやった。
先輩のおとうさんがそのホテルの支配人をやっててその先輩といっしょに働いた。
仕事の内容は布団引き上げ、と定食プレートの盛り付けやった。
修学旅行が多く女子生徒の部屋に布団をあげにいく時は楽しみがあった、洗濯物がほしてあるんです、「いろんなんあるなー」カラフルなランジェリーを眺めて興奮してた、もろたろかと思うことも少なくなかったが、ようとらんかった。
朝早い仕事でホテルの屋上のプレハブに寝起きしていた、昼間は暇で新京極あたりをうろついた、「イノダ」のコーヒー屋にもよく入った(あの店まだあるんかな?)
ともかく人生初めての仕事は楽しかった。

大学へ行ってたとき
 晴れて近畿大学へ入学、まず「演劇部」に入部!
正式名称近畿大学演劇部覇王樹座(サボテン)28期生
この時期は芝居中毒になっていたと思う。
総合芸術と称される演劇、1本の芝居を作るのには膨大なエネルギーがいる、しかしやり終えたときのあの充実感とゆうたらそらーもぉ!

昭和50年 1975 1回生
 文化祭は1年生のデビュー公演になる。
先輩が書いた「クレージーパラダイス」をやった。
精神病院の1室の物語なのだが最後はその患者達が観客に対して
「ほんまはあんたらのほうがおかしいんとチャウ」
という暗示を残して終わるファルス(笑劇)やった。

文科系サークルの団体(文化会)の前夜祭で「憂歌団」のライブがあった当時はまだあまり知られていなかったが観客大興奮アンコールが続いた、私は照明係りやったので高い足場台の上から見ていたが同じくエキサイトしてアンコールを叫んどった、もちろん今でも「憂歌団」は聞くし且つ歌う、ブルースはやはり救われる。

昭和51年 1976 2回生

 OBが舞台照明の仕事をしていてよくアルバイトをさせてもらった。
ピンスポットをはじめとして多種にわったて舞台の仕事に携わった。
日舞、バレー、コンサート、ファッションショー、ヘアーショウなどでこれらにはそれぞれヘアメイクや衣装係り、音響効果、など様々なスタッフがついてくる。
本当にいろんなことを知ることができた、ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)の大阪予選の仕事では世良正則&ツイストにスポットをあてたこともあったあんたのバラードを歌ってた「こいつが優勝するやろな」と思てたら案の定優勝した、後の実績はゆうまでもない。

 このような仕事はプロの世界だけではなく「女子大」からの応援要請も多かった、帝塚山短大、4大、樟蔭、愛泉など顔パスで構内に入れた(樟蔭はミュージカル同好会にコーチとして就任、コーチ証明証なるものを持ってた)現在ほどではないが当時も校門の前で彼女を待っている男たちがいた、私が守衛室の前を通ってどうどうと中に入っていくので「なんであいつ入いれんの?」と驚いたような、怒っているような、表情をしていたのを見てしょうもない優越感に浸っていたもんやった。

 酒はのんだ、ビールと日本酒をのんだ、当時まだ「チューハイ」はなかった。
とにかくよく飲むメンバーが4人いて演劇部四天王とよばれた、私の同期3人と1級上の先輩の4人だ。
4人でガラスのとっくり(1合入りで王冠がついてたと思う)に入った日本酒を70〜80本、ビールを15〜6本(大ビン)くらい飲んだこともあったが次の日も同じようなペースでのんでた。
追コンなんかでこのうち2人が行ったら日本酒だけでもお銚子30〜40本はいかれてまうんやから僕らの顔を見ただけで大騒ぎしとった。


昭和52年 1977 3回生
 部の30周年記念公演があり、なんと無謀にも「かっこうの巣をこえて」にとりくんだ 
アメリカの舞台劇で大ヒットしたものを名優ジャックニコルソンが主演しスクリーンでは「かっこうの巣の上で」と改題し上映された名作!
私の役どころはジャックニコルソンが演じたマクマーフィ主役です。
セリフ多かったぁ・・・・
セリフがはいらんで(覚えられないで)後輩の舞台監督によく怒られた、このまま公演当日になったらどうしよう、不安におののいてすごした日々を思い出す、後にこれがトラウマになりなにかものごとが行き詰ったりすると、このことが夢にでてくる。

マクドナルドでアルバイトに励む
マクドの梅田阪神店(当時世界でNO1の売上げ実績店)でアルバイトに励んだ。
深夜はメンテナンスマン(清掃係り)昼はクルー(製造販売係り)と昼夜兼行で働いた。手取りで16万くらいもらったことがある、24.5年前の16万は今の貨幣価値にするといくらくらいになるんやろ!
稼ぎは全部「飲んだ」

というわけで「クラブ」「バイト」の2元生活をしていた私は学校に行くはずもなく(クラブにはほぼ行ってたが)当然「留年」じつは前年も留年しており来年度は4回生で3年目の2年生をしなければならなくなった。
「改心し授業にでよう」という気力もなく退学を決意、無責任男の自分でも、さすがに親には申し訳ないと思った。

昭和53年 1978 4回生の頃
 学校を辞めたのに4回生とはこれいかに!
実はクラブだけは在籍してたんです、もちろん公式では無理な話なんでしょうがクラブは4年間在籍し追い出しコンパもしてもらい無事?卒業しました。
そのことは誰も不自然に感じてなかったと思う、今から考えるとおおらかな時代やった。
卒業公演は初舞台の「クレージーパラダイス」を再演した。
私自身「芝居中毒」になりこの世界から「抜けだせんのではないか」と思ってたけど抜けた。それ以来芝居に関わっていない。
でも同時期に芝居やめた連中と「何年後になるかわからんけどまた芝居しょうな」と約束したし、死ぬまでに1回は芝居をしたいと思ってる。
(残念ながらその仲間のほとんどが音信不通もしこれを見たら連絡してほしい)

昭和54年 1979 23才
 マクドのバイトを続けて社員に登用してもらうと考えていたので、がんばっていた。
戎橋に新しいお店ができるということでオープン要員として転勤になった。
店の前はすごい人通りなので売り上げを期待されたが予想より下回った。
メンテナンスマンのトレーニングをしている最中、眠ってしまったのがスーパーバイザーの知るところになった、やはり企業はきびしい!
売り上げが予想より下回っている状況下なので時給の高かった私はアッサリ首を宣告されてしもた。
初めて世間のきびしさを知ることとなった、けっこう落ち込んだ、が当時は今と違い仕事はたくさんあった。

 そのころ私は大阪北の繁華街、阪急東通り商店街近くの中崎西というところに住んでたんでこのあたりで職を求めた。
就職先は「クリエートエンタープライズ」という会社で東通りに新しいディスコをオープンするための募集やったその名は「パッションディスコ・エスパース」!ところがもう定員いっぱいといわれ「フィーバーガールズ」というパブで働いてはどうかと促された「ダンスを踊れるようになったらええな」とゆうような軽い気持ちだけ(結局今でも踊れない)で面接いったので「いいですよ」ということで即勤務した。
10坪そこそこのカウンターなしのボックスシートだけの店で8トラックのカセット(4曲入り)を使ったカラオケに当時では珍しいお立ち台がある店やった
この店は爆発的に流行っていた、女の子の質もよかったのだが決め手は「ビラ・ちらし」やった。
ボトルキープがボトルの原価の3割引の特典とチャージ・ミネラル・TAXなどをすべて明記し2人の場合ボトルキープして1人ぶんが2600円くらいという低価格さと明朗会計をアピールしたからやった、画期的な商法でお客様がならんで待つくらいやった。
インベーダーゲーム(テーブル式のヤツ)もあった、カラオケでは「バカねぇバカねぇよせばいいのに〜」の「よせばいいのに」が流行っていた。
主任に昇格したとき「エスパース」に転勤になった。
当時はいわゆるディスコブームでたくさんの店が軒(のき)を連ねた、テディダンがディスコダンスで世界一になった2年後くらいのことです。

「もう時効やろ!話」Vo2
 店はビルの3階にあった、深夜営業やったからよく警察がやってきた、DJブースでパトライト(クルクル回るやつ)をつけてビルの1階にスイッチを設置した、彼らがやってきたら入り口のシャッター閉めて音楽止めて、みんな沈黙・・・未成年者もいっぱいおるんやからそら緊張しとった、最初はそれでやり過ごせたけどそのうちそうもいかんようになって、営業停止になったりした。

 よう喧嘩もした、そやからなるべくヤンキー風のお客様をいれんとこ!
とみんなで決めたけど、売り上げがほしい上司は目ぇつぶって入れとった。
フォーカルポイントのDJが「チャカカーン」を連れてきたときも社長は
 「ちゃんと金もらえよ」とゆうとった                    
「世界のチャッカカーンやねんから招待するのが普通やろと」    
みんなブゥブゥゆうとった、それくらい商売根性ある社長やった。

 「フィーバーガールズ」で働いていた女の子とのみに行った
高校やめて沖縄に何年かおった、てな話しを聞いた
私の部屋に泊まった
私はいわゆる「奥手」でなんにもようせんかった(笑・でも本当の話)
彼女が帰るとき
「ここに鍵置いとくからいつでもおいで」
ゆうて電気のメーターに置いた
数日後、帰ったら鍵があいてた
電気もつけんとほの暗い部屋に落ち込んだ表情の彼女がおった
その日から彼女と暮すことになった
しばらくいっしょに住んで
「この女性(ひと)がオレの嫁さんになる女性や」
と思った
けっこう運命論者の私は彼女と結婚の意志を確かめ合うと彼女のお母さんと会い承諾を得た。
自分の親にはなんやゴチャゴチャいわれそうやから事後報告でエエと勝手に決めて一言もいわんかった。
それからあしかけ22年いっしょに暮らしてる、たぶん「死に別れ」とゆうことになるんやろと思う。


つづく・・・

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